高殿の発掘調査からわかったこと
礎石片側の土を除去したところ、礎石全体の形が現れました。礎石は、上面が平坦で63cm×70cmあり、高さは約50cmありました。礎石は、跡坪とよばれる地下構造内の作業スペースの排土を浅く掘り込み、粘土で地固めした上に置かれ、隙間には根石を入れて固定してありました。

土を浅く掘り、粘土で地固めをした上に置かれた礎石

礎石の下には根石がはさんであります
床面の下から現れた謎の遺構
今回の発掘調査では、掘立て柱の跡があるかどうかの確認が主な目的でしたが、結果的に柱の跡は見つかりませんでした。しかし、四本の押立て柱は全て基部が腐食しており、その部分には補強材がはめ込まれています。このため、現在の押立て柱は、掘立てで建っていた柱が再利用された可能性も残されています。

押立て柱の基部に挿入された補強材
調査区の床面を掘り下げていったところ、意外なことに床面の下からわずかな空洞が現れたのは大きな驚きでした。高殿の床面は硬く敲き締めてあり、まさか床面の下に隙間があるとは想像もしていませんでした。さらに掘り下げたところ、隙間の部分から石列も現れたのです。調査の結果、隙間や空洞の部分は幅が約30cmあり、溝の跡らしいことがわかりました。この溝は床面から約40cm下に設けられており、石列はこの溝に沿って置かれている可能性が高いこともわかりました。しかし、この溝や石列は何のために作られたのか、たたら製鉄に関した古い書物にも記録がなく、謎の遺構となりました。

上から見た礎石の掘削部 左の隅に石列と、土の色が違う
溝状の遺構が見えます
天秤鞴(てんびんふいご)から水車を利用した送風へ
近代たたらでは、砂鉄と木炭を燃焼するため、大きな風力が必要となります。そこで登場したのが天秤鞴でした。天秤鞴は、番子とよばれた、たたら炉に風を送る作業者が天秤鞴に乗って天秤の板を相互に一時間踏み続けて交代するという、たいへん厳しい作業だったのです。菅谷たたらでは、この天秤鞴による送風が明治38年まで行われていたとされています。この翌年に設置されたのが水車を利用した送風設備でした。風は土管を通ってたたら炉に送られますが炉の両脇に風を送るため、高殿内に風の分岐部が設けられました。今回の調査で、これまでよくわからなかった分岐部の構造がわかりました。
この分岐部は、粘土で作られた枡状の長方形の部屋になっており、長軸の壁面には風が流入する土管の口、また、短軸の両壁には、炉に風を送る土管の口がのぞいています。さらに長軸側の壁の内側には板の仕切り用の刳り込みがありました。このことから枡の中の前後を板で仕切ってから上面を風が漏れないよう、板でしっかりふさいであったことがわかりました。この送風装置の導入により、天秤鞴は役目を終え、高殿内にあった番子部屋(寝屋)とよばれる番子さんの休息所は撤去されました。今回の調査によってこの部屋の礎石が確認され、かつての番子部屋の跡を偲ばせています。

奥の土管から入ってきた風を左右の土管に分ける分岐部。
手前の壁は粘土が消滅しています