SHIMANE UNNAN-CHALLENGE

これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)

歴史の幸

歴史の幸「菅谷たたら山内」『語り部』~菅谷たたらの歴史物語⑪~



      

         















高殿の前にある鉄池(手前の窪み)と大どう場
      


~鋼が出荷されるまで~
 鉧押し操業では、操業開始から四日目に入る頃には釜土が溶けて釜が壊れる寸前になるといいます。大体七十時間ぐらいで(操業を終え)釜を壊すと底から鉧が姿を表します。『語り部』にあるように鉧の重量が約四トンあったとしても人力だけで動かすのは大変なことです。そこで菅谷たたらでは村下座の後ろに当たる高殿の外に「カグラサン」とよばれる巻取り機が設置されていました。そして鉧塊の下にコロを敷いて一旦釜の外に引き出します。次に、方向を変えて高殿の前にある鉄池に設置されたもう一基の「カグラサン」で鉧塊を高殿の外に引き出し、そのまま鉄池に鉧を沈めるのです。すると、鉧塊は水で冷やされて池から水蒸気が湧き上がるのだそうです。
こうして冷やされた鉧塊は、桂の木の横にある大どう場に運ばれます。因みに「どう」という漢字は金、月、同を並べた字ですが、残念なことにパソコンでは出てきません。たたら製鉄の衰退とともに「どう」の字も消滅してしまったのかもしれません。大どう場は、建物の後ろに設置された水車を利用して鉄の分銅(錘)を吊り上げ、鉧塊に落として砕く作業場でした。


         
















田部家の土蔵に保管されていた玉鋼(1.8㎏)    
鉄の歴史博物館所蔵

  話を戻しますが、たたら製鉄で造られた鉧塊は長さがおよそ二メートル七〇~八〇センチぐらいになります。鉧の状態は、例えば巻き寿司はどこを切っても断面は同じなのですが、鉧は決してそのようなことにはなりません。極上の玉鋼になる部分もあれば鋼や銑鉄が入り混じった部分、炭素の多い銑鉄など均質が全く異なっているのです。
 さて、大どう場で破砕された鉧はおよそ百十~百五十キログラムぐらいの固まりとなり、ここから元小屋に運ばれます。元小屋というのは菅谷たたらの経営から山内居住者の生活全般を取り仕切る支配人の事務所兼住居なのですが、同じ棟には内倉あるいは小どう場とよばれる作業場も併設されていました。ここでは大どう場から運ばれた鉧の表面についている銑鉄や質の悪い鉧を一旦削り落として再び大どう場に持ち込み、さらに小さく砕いたものを再度内倉に運んで鉧が選別されました。

 

こも詰めにされた目白鋼(めじろはがね―小さく砕けた上質の鋼)

 この選別で重要な役割を担ったのが「鋼造り(はがねづくり)」と呼ばれる職人でした。鋼造りには、同じ鋼でも品質によって価格が大きく違うため、品質の異なる鉧を正確に選別する厳しい選別眼が求められたのです。
選別された鉧は品質ごとに名前がつけられました。最上級の鋼はもちろん「玉鋼」ですが菅谷たたらではさらに、極上の玉鋼をㄱに天(かねてん)、上等をㄱに寸(かねすん)、中等をㄱに可(かねか)、並品はㄱにや(かねや)の四段階に選別されました。内倉では「かねてん」と「かねすん」の鋼は松板の箱に詰め、「かねか」、「かねや」は薦詰めにされ、荷造りにはそれぞれの名の刻印がされて出荷されました。朝日光男氏いわく、「寸」、「可」、「や」で「ス・ガ・ヤ(菅谷)」となるのだそうです。また、『語り部』には明治時代に拳の大きさぐらいに割った鋼が「玉」とよばれ、そこから玉鋼とよばれるようになったとあります。

鋼の運送
 ところで荷造りされた重量は、荷一つがおよそ45㎏にもなります。菅谷たたらで生産された鋼は、菅谷から一旦三刀屋町の粟谷に運ばれ、そこから川舟で斐伊川を下り松江に出荷されていました。その運搬の主役を担ったのが馬だったのです。


駄馬を使った鉄素材の運搬仕事は、農民の生活の糧でもありました

今から百九年前の日露戦争時(明治39年)の運送の様子を『語り部』はドラマチックに伝えています。
 日露戦争時(この年まで菅谷高殿では番子さんが踏みふいごで炉に風を送っていました)の二月の大雪に全村民で鉄の搬出に協力したことを古老から聞いたことがある。大部分の鉄は川舟で松江に出荷されていたが、余った鉄は―中略―荷車で国道を三次から呉の工廠に運ばれていた。
しかし、積雪になると粟谷に運ぶ路しかなく、大雪では駄馬による運搬は無理であった。区間によっては雪ぞりを人が引く、又は人が背負って運ぶしかなかった。―中略―二月二十日ごろまでにたたらや大鍛冶屋にある鉄をできるだけ多く運ぶことになり、歩ける者は男女を問わず皆が協力した。運べない者はむすび(おにぎり)をつくり、また、むすびや湯茶を運ぶ者など、雪道を常に人が歩いていることで路が開き、昼も夜も休むことなく「鉄」が運ばれていた。吉田町など家にいる者は高齢弱者だけであった。二月の二十日間は大雪との戦いであった。皆が不平ひとつも言わず毎日進んで(「鉄」の運搬に)協力していた。
 このような出来事がなぜなしえたのか、それにはたたら経営者であった田部家の経営理念と深い関わりがありました。次回は経営者とたたら従事者との関わりをご紹介します。

記事一覧

もっと見る

コミュニティナースプロジェクトin雲南

Facebook

雲南市に関係するサイト